Review of the performance. Author: Shinichi Takeshige

Review of the performance "(Re)verberations: Bridges Between Poland and Japan" (Amareya+Ainu) Author: Shinichi Takeshige 






         現在の日本の社会を生きるアイヌ系女性たち       アマレヤシアター&ゲスツ『(残)響,ポーランドと日本の間に架ける橋』        (10月5,6日所見 シアターバビロンの流れのほとりにて)                    竹重伸一(ダンス批評家)



アイヌ人は文字を持たない民族である。そして、墓さえも木製であるためいずれは自然に還る運命にある。つまり、目に見える形では何も文化の痕跡を後世に残さない民族なのである。しかし、近代以降の日本政府の同化政策と差別のために、今やアイヌ人のコミュニティーは全く存在せず、日常的にアイヌ語を話す人もいない中で、アイヌ文化の記憶は文字や博物館の中に記録・保存されて生き残っているのが現実である(そして、その記録・保存に大きな貢献をしたのが、ポーランドの民族学者ブロニスワフ・ピウスツキである)。出演者の一人松平亜美が公演の中で語るように、博物館でアイヌ文化に出会うことは、アイヌ系の人々にとって常に喪失の感情に直面することでもある。上演の後半にスライドで上映される『博物館』という詩がその矛盾した感情を象徴していたように思う。

翻って舞台芸術であるダンスもまた、物質として残る美術や文学と違って、その場で消えてしまうことを運命づけられた芸術である。現在では映像に記録されるようになったとはいえ、その本質が変わったわけではない。この舞台の演出・振付のカタジナ・パスツジャクは、このダンス芸術とアイヌ文化の共通性を利用して、現在の日本の社会を生きるアイヌ系女性たちの姿をアイロニーとメランコリーを持って浮かび上がらせることに成功したと思う。

公演について先ず最初に指摘しておかなければならないのは、舞台上に照明で作られた土が盛られている4つの矩形の枠の存在である。この4つの枠にはアイヌ文様が施された衣服を纏ったアイヌ系の女性4人一人一人が入る。これは、彼女たちがアイヌ系である前に一人の個人であり、固有の身体空間を持っていることを視覚的に明示している。日本でも上演された『Nomadic Woman』 (2012)においても、矩形の枠はないものの出演者は明らかに皆固有の身体空間を持つ存在として演出されていたように、群舞においても一人一人のパフォーマーが「個の身体」として舞台上に存在しているのがアマレヤシアターの舞台の大きな特徴である。これは彼女たちの民主主義的な理念に基づくものであると同時に身体の空間的な存在性を重視する日本の舞踏の影響であろう。

公演終盤に2つの象徴的なシーンがある。一つは、民族舞踊を踊るアイヌ女性を記録した映像が映された後に、その踊りに触発されて舞台上の4人のアイヌ系女性も同じ踊りを踊り出すシーン。もう一つは、家族写真を見せながら自らの家族史を話すアイヌ人男性の映像が映された後に、アマレヤシアターの3人の女性も加わって7人全員で、4つの矩形の枠それぞれで集合写真を撮影するポーズを繰り返すシーンである。

しかし、2つのシーンからもたらされる感情は正反対のものである。前者には生きたアイヌの踊りが瞬間的に蘇ったような感動に襲われるものの、後者からは出演者たちの喜々とした表情とは裏腹のある悲哀が漂ってくる。一つ目のシーンで我々が感動するのは、文字や博物館の中ではなく、生きた人間が存在する舞台の上で文化の継承が行われたことを目の当たりにしたためであろう。そこには、文字や博物館の永続的なモノにはない一回性のアウラ(それこそ舞台芸術の真髄であると共にアイヌ人が大切にしてきた価値である)があったからである。しかし、皮肉にもこのアウラの生みの親は映像なのである。そして、二つ目のシーンで示されるのは、その舞台上に束の間復活した民族舞踊のアウラもポーランドと日本という国境を超えてできた出演者たちの共同体もまたすぐに消滅する運命にあり、残るのは写され写真であるという苦い認識なのである。

そもそも、アマレヤシアターの舞台ではいつも映像や写真が大きな意味を持って登場する。舞台上のパフォーマンスは、映像や写真との関係性の中で立ち現れて来るのである。現代という時代の中心は、言うまでもなく映像や写真という記録・複製メディアにある。全てが写されて記録され、今やSNSの力も相まって簡単に世界中に流通する。この科学技術が可能にした「アウラなき」メディアの力を肯定するのでも否定するのでもなく、それらとの関係によって生まれる新たな身体のアウラこそがアマレヤシアターの舞台で探求されているものであろう。それはあくまでも神話的な身体のアウラではなく歴史的な身体のアウラである。そして、この舞台でのアイヌ女性たちも、民族衣装と化粧を身に着け、民族舞踊を踊り、民族音楽を歌い演奏していても、決して「博物館」の中にいるのではなく21世紀という時代を生きている女性たちなのである。



Comments