アガタ・ハウプニク『女性形のもの』
はじめに
“シェイクスピアの妹”という人物像は、ヴァージニア・ウルフが1929年に執筆したエッセイ『自分だけの部屋』の中で最もよく挙げられる疑問点の一つであるが、今なお不穏な力を保つ作品だ。『灯台へ』を執筆したこの女流作家が、女性作品の強み、その特質、相違点について考察しつつ、他方、何よりもその社会的な条件について思いを巡らせながら、なぜシェイクスピアの妹がいなかったのかと問う。つまり、シェイクスピアのような偉大な作家を意味し、同様の力、気質、勢いを持ち、文学史や演劇史への影響を与えるような女流作家がなぜいなかったのか、と。シェイクスピアのような才能を持った女性はいまだ生まれなかったのだろうか。それは分からない。だが例え生まれていたとしても、この仮のシェイクスピアの妹は、シェイクスピアの時代では自分の才能を開花させるチャンスがなかったのではないだろうか。ヴァージニア・ウルフは「きっと気が狂うか、ピストルで自殺するか、どこか村外れの一軒家で、半ば男の魔法使いと恐れられ、嘲られて、生涯を終えたであろうということです」と述べている。ウルフの考えでは、「自分自身のそれに逆らう本能によっても非常に苦しめられ、引き裂かれるでしょうから、ついには必ず体をこわし、正気ではなくなるに違いない」といえる障害に出くわしていたことだろう。なぜなら、ある娘が「ロンドンまで歩いていって、楽屋口に佇み、役者兼座元に強引に会ってもらおうとすれば、きまって我と我が身を害なうことに」なったからではないだろうか。さらに、「十六世紀のロンドンで自由に生きることは、詩人であり劇作家であった女性にとって、命取りになっても当然なほどの神経の緊張とジレンマを意味したことでしょう。その緊張とジレンマを乗り越えたとしても、彼女の書いたものは何であれ、緊張した病的な想像力から生まれる以上、ねじれた、いびつなものであったでしょう」とも述べている。
シェイクスピアやキーツの仮の妹のこのようなジレンマと緊張、男性の批評を伴った感情的な争いについて書きながら、ヴァージニア・ウルフはそこに自分自身を重ねて書いている。この二十世紀の作家は、十六世紀に生きた彼女の先駆者たちが経験したのと比べても少なくはない緊張と争ってきたのである。ウルフのエッセイから、皮肉、苦々しいユーモアのセンス、それに彼女のナラティヴな才能がすっかり込められた別の場面を取り上げよう。ウルフが図書館への入館を許可されなかったオックスブリッジ訪問の話だ。あのウルフが!同世代の中では最も才能ある女流作家に含まれ、意識の流れ手法の共同発案者であり、近代小説における変革の共同著者でもあるウルフが!
この時、私は図書館に通じる入口に現に立っていたのでした。私はドアを開けたに違いありません、というのは、すぐさま、白い翼ならぬ黒いガウンをはためかせて行く手を阻む守護天使のように、銀髪の優しげな紳士が咎めるような気配で出てきて、手振りで出ていくように合図しながら、残念ながら御婦人方は学寮の特別研究員と同伴か、もしくは紹介状持参の場合にのみ入館を許可される、と低い声で言ったのでした。(中略)神々しく静かに[図書館は:引用者注]、数々の秘蔵物をふところの中にしっかりとしまい込んで、それは満足気にまどろみ、かつ、私に関する限り、そうして永遠に眠っているでしょう。もうけっしてあのような反響を惹き起こすようなことはするまい、二度とあのようなもてなしを求めるようなことはするまい、と私は怒って階段を降りながら心に誓ったのです。
ここで女流作家の“沸き起こる怒り”は注目に値する。この感情こそが数十年後、フェミニズム批評やジェンダー・スタディーズによって提唱された正典の見直し、そしてその形成のメカニズム誕生へと導いていったのである。だがまた、“アカデミー”と“文学”という空間から女性を排除することがどのようなことかというのを示すより、適切な比喩を考えるのは難しい。似たような屈辱は、その数十年前にマリア・コモルニツカ(Maria Komornicka)も経験していた。女流モダニズム作家という役割と関連する緊張に対して示した彼女の反応は、ジェンダー・トランスグレッションであった。ヴァージニア・ウルフは自殺した。どちらの解決法も、世紀の変わり目を生きた物書きをする女性、かの“屋根裏の狂女”というイメージには特徴的に思われる。
しかし、ヴァージニア・ウルフはさらに他の手がかり、彼女の考えによれば、女性的な作品(そして歴史上における“シェイクスピアの妹”の不在)を条件づけるものを示唆している。すなわち、テーマやジャンルの階級付けがあること、女性的な文学の伝統が欠如していること、そして『自分だけの部屋』の著者が(このことを強調しておきたいのは、この点が彼女の文章において今日最も議論の余地があるように思われるからである)、創作には欠かせない条件だと考える経済的自立の問題である。
「なぜ“シェイクスピアの妹”がいなかったのか」とヴァージニア・ウルフが1920年代の終わりに考えあぐねていたように、リンダ・ノックリンは1971年に「なぜ女性の大芸術家は現れなかったのか?」と問うた。このように「単純な問いですら、もし適切な答えが得られるなら、一種の連鎖反応を起こすだろう」とフェミニズム美術史の母であり創始者は記している。
「なぜ女性の大芸術家は現れないのか?」という問いは、思い違いと誤解の氷山の十分の一、ほんの一角にすぎない。その下には、芸術の本質と情況によるその付随事情についての、人間の諸能力一般の本質と、特に人間の卓越性の本質についての、そしてこれらすべてにおいて社会秩序が果たす役割についての、あてにならない《世間一般に受け容れられた考え方》という黒々とした巨大なかたまりがあるのだ。《女性問題》それ自体が似而非問題かもしれない一方で、「なぜ女性の大芸術家は現れないのか?」という問いに包含される誤解は、女性の服従に含まれる特に政治的思想的論点を超えた、知的困惑という主要な領域を指し示す。この問いかけの根底には、大芸術を作り出すことについてと同時に芸術一般の制作についての、単純素朴で曲解された無批判の前提が数多くある。
ヴァージニア・ウルフとリンダ・ノックリンによる問いかけも、その回答形式も驚くほど似ている。アメリカの美術評論家ノックリンは、機関として条件がつけられていたことと美術教育から女性を排除していたこと(アカデミックな教育モデルにおいて条件がつけられていたのは、ヌードモデルのデッサンであり、慣習的に女性には禁じられていた)について指摘しているが、問題の位置そのものに根を下ろしている方法論的な誤りでもあった。“女性の大芸術家”・“男性の大芸術家”に関する問いは、これまでの美術史のナレーションにおいて記されてきた暗黙の了解を受け入れていることが前提とされている。その鍵となる人物像といえば“天才芸術家”で、それはもちろん男性を意味していた。それと同時に、私たちは正典の仮定を覆さず、そこから排除された女性芸術家、すなわちシェイクスピアやラファエロの妹たちを探しながら正典をただ単に広げようとしているのである。
その一方で、女性フェミニズム研究者にとっての最重要課題は、フェミニズム演劇研究で知られる研究者ゲイル・オースティンに見られるような、歴史文学的、歴史演劇的あるいは歴史文化的と同じように歴史芸術的なナレーションの再構築、“正典の爆破”であろう。オースティンは、フェミニズム批評の進展を示しつつ、それを三段階に分類している。最初の段階は、正典と正典のテキストにおける女性像の再解釈、第二段階は、正典から排除された女性芸術家像についての正典の拡大。第三段階は、この多作な研究者の最大の課題であるその“正典の爆破”は、劇場における意義創造のメカニズムを理解させる理論的な道具の探求によるだろう。
そのフェミニズム演劇研究潮流の生みの親といえる本、スー=エレン・ケースの1988年の著書『Feminism and theatre』が、実際のところオースティンによって指摘された全三段階に当てはめることができるだろう。ケースは演劇史を女性の、正しく言えば女性の不在、欠如、排除という観点から言及している。何世紀にもわたる長い間、女流作家同様、女性役者として舞台上に女性は存在していなかった。唯一、男性役者によって演じられる男性の空想としてだけ存在していたのである。一方、古代ギリシャでは演劇の研究所化は、男性上位の研究所化と重なっていた(ケースはオレステイアにおける絵画にそれを見て取っている)。そこからこの手段の保守的な規模に関する疑問を投げかけることになる。“status quo”(現状)を証明する道具なのか、それともまた解放の道具となりうる破壊的な潜在力も持ち合わせているのか。演劇における女性の伝統を定めることさえしなくとも、その伝統に女性の長と名付けてもおかしくはない演劇における女性先駆者たちのことも記している。例えばテレンティウスの喜劇を脚色したザクセン州の尼僧ガンダースハイムのロスヴィータ、十七世紀に生きたメキシコの修道女ソル・フアナ=イネス・デ・ラ・クルス、演劇のために書き続けた最初の女性のうちの一人として奔放な人生を歩んだことで知られているアフラ・ベーン、そして男装をすることが性に合い、その半生を男性として過ごし、また女性役者として男装の役を演じる女性のために書かれたいわゆる“breeches roles”(すなわち“ズボンを履いた”役柄)で成功を収めたスザンナ・セントリーヴァを挙げている。最後に、記号論とマテリアリスト・フェミニズム(物質的フェミニズム)に言及しながら、ケースは演劇における意義発祥のメカニズムについて考え、フェミニズム演劇を様々な規模で証明する。ケースの著書については、どんな方法を取るにしても多くを批判することができるに違いない(歴史を簡素化している、テーゼに根拠がない、例えに独りよがりなところが見られる)が、マニフェストとして今もなおパワー、エネルギー、新鮮さを保っている。
こんなにも長く女性を排除してきた男性上位で男性継承の伝統に対して、フェミニズム研究者、読者、実践者として私たちは、どのように自分たちの居場所を見つけるべきだというのだろうか。それに反して、演劇界に蔓延する権力と生産条件の関係を理解させてくれる道具を探す手段として、また演劇と男性上位との危険な関係を発見するために、そして“last but not least”代替可能な伝統と正典から排除された女性の登場人物や現象を探すために、スー=エレン・ケースは古典のテキストを読むよう勧めている。そんなケースの挑発からある程度インスピレーションを受けつつ、数年の私たちの仕事の成果を読者に届けたい。
本巻はHyPaTiaプロジェクトにおいて製作された。ポーランド劇場の歴史(Historia Polskiego Teatru) - ヨアンナ・クラコフスカ監修の元、演劇研究所で行われたフェミニズム研究プロジェクトである。本プロジェクトの目的は、二十世紀においてポーランド演劇を共に作り上げた女性たち(女性役者、女性監督、女性脚本家、女性劇作家、女性教師)についての知識を深めることである。私たちの研究がポーランド演劇史についての知識を深めるだけではなく、研究者たち(女性も男性も)の認識の変化、トレイシー・C・デイヴィスが要求している、レンズの焦点を移動させるということ、またその結果として、女性の観点と女性の経験を条件づける、歴史演劇的な新しいナレーションの創造、最後には、正典の拡大あるいは代替可能な正典創造へと導いてくれることを期待する。HyPaTiaプロジェクトでは、インターネットサイトwww.hypatia.plが立ち上げられ、ポーランド演劇における女性の歴史に関する記録資料が掲載されている。また、女性芸術家たちとの対話を記録した映像が随時制作されている。戦後ポーランドの舞台において、管理する立場にいる女性の存在や女性のテキスト、女性の演出に関する統計についても掲載されている。本巻と並行して統計集『アゴラ(Agora)』、プログラムの発言集『演劇の(非)認識((Nie)świadomość teatru)』といった出版物が印刷中のほか、サイト上では『1944年〜2015年における女性の演劇人生年代記(Kobieca kronika życia teatralnego 1944 – 2015)』が掲載予定である。しかしながらやはり今回作り上げた戯曲集は、私たちにとっては特別な意味がある。
HyPaTiaが雑誌、記録書、Zaiks、国立国会図書館で探し出し、収集したものの中から大なり小なり(程度の差はあれ)知られた女性の手による戯曲作品は、十九世紀末から二十世紀後半にかけて書かれたもので、本プロジェクトの女性メンバーが体系的に読み、まとめ上げたものである。私たちはそれら数十作品を共に読み、最終的に本巻に収録する十数作品を選び出すに至った。選ぶのは容易なことではなかった。私たちが議論した作品すべてが良質だったわけではない。既にヴァージニア・ウルフが懸念していたように、仮のシェイクスピアの妹が書いたものは「緊張した病的な想像力から生まれる以上、ねじれた、いびつなものであった」だろう。確かにそういうことはよくある。文章は均一ではなく、そこには女流作家の存在の欠如が見て取れる。伝えたいことは控えめであったりなんとなく書かれているだけであったりのようでもある。その一方で“根本的な”問いは、“良質な”というのはどういうことなのかということである。誰が、どのような美的基準によって評価しようというのか。最良の(あるいは“最良の”かもしれないが)女性のテキストは(時には滑らかな形式の下に驚くようなメッセージが込められている、うまく縫い合わされたパヴリコフスカ=ヤスノジェフスカ(Pawlikowska-Jasnorzewska)の戯曲のように)、結局は歴史演劇的なナレーションの主流の欄外で機能している。しかしながら、私たちは新しい名前と題名を流れに乗せたかったのだ。私たちが考慮した続く基準は、テキストに込められたフェミニズム的なメッセージだった。「ポーランドは疑いもなくヨーロッパで特に豊富なフェミニズム戯曲で際立っていた」と20年以上も前に書いたのは、ヤゴダ・ヘルニク=スパリンスカ(Jagoda Hernik Spalińska)であった。その言葉は私たちにとって重要なインスピレーションを与えてくれ、本書のタイトルはそこから引用させて頂いた。とはいえ、フェミニズム基準はそれほど明白なものではない。今日の私たちにとっては彼女たちの作品の発言がフェミニズムであることが明白であるにもかかわらず、私たちが選んだ女性作家のグループの中で、自身をフェミニストと定義する者は多くはないだろう。それは自身の作品のページ上で男性上位の世界と闘うかのように、公的の場で同じく執拗に女性解放と闘い、女性活動に対して相反するガブリエラ・ザポルスカ(Gabriela Zapolska)の姿勢を思い出すだけで十分だ。
従って私たちが最終的に選んだものは、妥協の結果である。知られていない、あるいはあまり知られていない女流作家の、知られていない作品を選ぶようにした。もちろんこれはガブリエラ・ザポルスカ(Gabriela Zapolska)、イレナ・クシヴィツカ(Irena Krzywicka)、マリア・クンツェヴィチョーヴァ(Maria Kuncewiczowa)についていうことはできない。正典の女流作家でありながら、クシヴィツカとクンツェヴィチョーヴァが戯曲を書いていたことは恐らく知られていない。『男性(Mężczyzna)』は確かにザポルスカの作品の中で最も有名な作品に入るとは言えない(そしてそれがなぜかということを考えるべきだろう)。その一方で、私たちが選んだ3作品、マルツェリナ・グラボフスカ(Marcelina Grabowska)の『正義(Sprawiedliwość)』、マリア・モロゾヴィッチュ=シュチェプコフスカ(Maria Morozowicz-Szczepkowska)の『Aタイプ(Typ A)』、イダ・カミンスカ(Ida Kamińska)の『防空壕を埋めろ(Zasypać bunkry)』は、広く読者に行き渡る初めての機会を得た初の試みであった。私たちが選んだテキストの全てが優れているというわけではなく、恐らく全てがフェミニズム的なテキストとして解釈できるというわけでもない。しかしながら、その全ては何らかの理由で重要な作品であるとしたのだった。何らかの方法で、私たちや私たちが生きるこの世界と共鳴しあっている。今でも通じるところがある。
どの程度まで今でも通じるところがあるかということは、この2年が示している。この間、多くの分野で保守的なbacklash(跳ね返り)の印の元、私たちの国で流れていた2年間のことだ。全面的な中絶禁止や避妊薬入手の厳しい制限に対する闘いの場が続々と通りで繰り広げられ、恐らくはこの百年で初めて何千人ものポーランド女性がこのような闘いの場に参加した。『正義(Sprawiedliwość)』の女性作者マルツェリナ・グラボフスカ(Marcelina Grabowska)は恐らく黒いプロテストの女性の長のうちの一人となり得たかもしれない。一方、本書のテキストの大部分が、ちょうど今世界的なメディアによって活動しているハッシュタグ“metoo”で記された改革と共鳴している。さらにその改革は、女性や女性に許された慣習に対して性的な背景を持つ暴力に関連しているのだ。いくつかの政治的兆候の浸透性、私たちに近い、女流作家たちの左翼的な感受性、そして世界は良い方向に変えられるというその女流作家たちの期待についても記しておくに値するだろう。
本作品は、作家についての記述と解釈を提案した文章に始まる5つのブロックに分類されている。それぞれのタイトルは『解放』、『改革』、『沈黙』、『壊滅』、『再考』とした。恐らく他の様々な方法でも、私たちが推奨する意味の他の状況においてタイトルをつけることができるに違いない。それを是非考えてみて頂きたい。私たちが今回流通に載せた作品が、演劇史、戯曲史、ポーランド文化史について、また今日の社会的現実についての議論の手段になることを願っている。排除された女性と集団の状況がどのように変わるのか(あるいはどのように変わらないのか)ということについての議論。記憶、権力、政治、体、自由についての議論。正典の形について、そしてなぜシェイクスピアの妹がいなかったのかということについての議論。私たちが何を痛手とし、何を恐れ、どのような世界を求めて闘いたいのかということについての議論。戯曲が女性形にもなり得るのではないのかということについての議論。
アガタ・ハウウプニク(Agata Chałupnik)
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